~ 500年以上の歴史を持つ南信州の渋柿栽培 ~
南信州地域の渋柿栽培の歴史において、その源流の一つに飯田市三穂地区の立石(たていし)集落を中心に作られていた「立石柿」があります。
室町時代の永禄年間(1558~1570)に記された立石寺縁起にも「立石柿」の記述があることや、江戸時代中期の元禄8年に刊行された有名な『本朝食鑑』という食療書にも「信州の立石に小串柿というのがあります。味が浅く、ややよいものである。」と記されており、元禄時代にはすでに江戸や大坂で知られていたことがわかります。
三穂の立石寺(りっしゃくじ)は、古くから「柿の観音様」として信仰を集めてきましたが、寺には、江戸時代の立石柿に関わる2幅の絵馬が奉納されています。1幅は天竜川を船で下り、駿河湾から柿問屋に下伊那郡南部の柿が送られる様子を、もう1幅は、馬の背に乗せて中馬で山越えしている様子が描かれています。
南信州地域では干し柿を「福を「かき」こむ」縁起物として正月に食べる習慣がありますが、当時の江戸では御菓子のように食べられていたと言わています。また、伊勢では串柿は、干し魚、伊勢エビ、だいだい、かち栗と一緒に神棚に供える習慣があり、ここにも立石柿が用いられていたようです。
立石では、かつては、皮むきと吊しの作業を(今日は誰の家に、明日は誰の家に集まって作業するという形態で)集落で協力し合って行い、特に手間が掛かる柿剥きでは柿山の上に「ぼた餅」を置いて、深夜に作業が終わって「ぼた餅」だけになったところで、皆で食べて解散するというような「結い」の作業体系がありました。
飯田市歴史研究所の文献「みるよむまなぶ 飯田・下伊那の歴史」から「立石柿の流通と、その展開」を紹介します。
(執筆者:前澤 健)
果物が数多く栽培されている飯田・下伊那。その源流の一つに「立石柿【たていしがき】」があります。立石柿が江戸に運ばれるまでには、多くの人びとが関わりました。そのようすを立石寺【りっしゃくじ】に奉納された絵馬【えま】から読み取ってみましょう。
一八三七(天保八)年、山田河内【やまだごうち】村(現下伊那郡下條【しもじょう】村)の佐野屋嘉蔵【かぞう】を世話人として、天竜川通船の船頭【せんどう】たちが立石寺に奉納した絵馬である。絵師は親田【おやだ】村(現下條村)の古田鷹麿【たかまろ】。天竜川を使って運ばれた立石柿(串柿【くしがき】)は、将軍の歯堅【はがた】め(年の初めに餅や勝栗【かちぐり】などの堅い物を食べ長寿を願う行事)に使われた由緒【ゆいしょ】がある。幕末には、江戸っ子の正月に欠かせなかった立石柿。振売【ふりうり】たちは、「たていし たていし」と年末の江戸の町を売り歩いたと言われている。この絵馬が奉納された立石寺は、「柿の観音」ともいわれ、信仰を集めていた。
「立石柿出荷天竜川通船絵馬」を読む
画面中央に大きくS字状に描かれているのが、天竜川です。実際は、ほぼ南北に流れているので極端にデフォルメしていることがわかります。画面の右上の赤い建物は、絵馬が奉納された立石寺で、その左を流れる細い川は阿智【あち】川です。絵馬に描かれた地域は、天竜峡より南で、天竜川は最後に山のかげにかくれてしまいますが、信州と三州・遠州との境付近まで、と考えられます。
立石柿の仲買人たち
絵馬には多くの人が描かれています。立石寺には仁王門【におうもん】前に女の人が二人、仁王門と本堂を結ぶ参道【さんどう】に男の人が二人います。それぞれ着飾っているので立石寺に参詣に行くのでしょう。立石寺も「柿の観音」にふさわしく大きく描かれています。
阿智川を左に越えたところに旅姿の男の人が二人います。彼らは遠くから立石柿を買い付けにきた仲買人【なかがいにん】と考えられます。晩秋から初冬にかけて立石柿の出荷のシーズンになると、飯田町や江戸などから商人たちが買い付けに来ました。彼らは、立石柿を百姓から直接買ったり、蔵が描かれている地元の集荷問屋から買ったりしました。阿智川の左にある「■【周から丿をとった文字】」の印がある蔵は、この絵馬奉納の世話人である山田河内村の佐野屋嘉蔵の家と考えられます。
さらに画面をみると、馬を使って立石柿を運ぶ馬方【うまかた】(中馬【ちゅうま】)があちこちに描かれています。馬の背には立石柿を包んだ菰【こも】が積まれています。川に向かっている馬は、天竜川の湊【みなと】まで立石柿を運びました。反対の方向を向いているものは、下條の山を越えて浪合【なみあい】へ出、そこから名古屋や岡崎へ運んでいったのでしょう。
天竜川通船に関わる人びと
馬の背に積まれ天竜川の湊まで運ばれた立石柿は、舟で河口の掛塚【かけつか】(静岡県磐田市)まで運ばれていきました。天竜川には、たくさんの舟が描かれています。荷を積んで下流へ向かう舟、上流へ戻る舟などがあります。矢倉【やぐら】の滝には川の中に大きな岩があったり、川の流れが渦巻いていたりします。天竜川一番の難所を通る船は帆をたたんでいます。天竜川の通船は、このような危険な箇所をいくつも通らなければなりませんでした。天竜川が大きく右に曲がった所では、岸で舟を引いている人がいます。普通は帆を張り川をさかのぼりますが、流れが急な所ではこのように人力で舟を引き上げました。この絵馬ではもう一カ所で舟を引き上げています。
画面中央には蔵がたくさん立ち並ぶ家があります。湊の荷問屋です。荷問屋の前に広い庭があり、ここには立石柿やその他の荷物が集められ、舟に積まれるのを待ちました。問屋の周囲には、仲買人もいます。柵の近くにいるのは番頭でしょうか。荷問屋の側の湊には、帆をたたんだ舟が数艘【そう】止まっています。湊は三カ所描かれています。上流から川田(下伊那郡阿南町)・温田【ぬくた】(同泰阜村)・御供【おども】(同阿南町)の湊であると思われます。
安全と商売繁盛を祈願して
この絵馬は、一八三八(天保九)年に柿の集荷問屋四名と天竜川通船の船頭たちが立石寺に奉納したものです。彼らの名前は、絵馬の右下に書かれています。絵を描いたのは親田村の絵師古田鷹麿です。彼らは立石寺に立石柿の商売繁盛を感謝するとともに通船の安全を祈ったのでしょう。立石寺には一八一四(文化十一)年に江戸柿問屋が奉納した絵馬も残っており、柿の観音としての信仰の深さを物語っています。
領主・百姓にとっての串柿
大坂冬の陣(一六一四年)の際、伊那・阿島【あじま】の領主知久頼直【ちくよりなお】から、家康の側近本多正純【まさずみ】に、串柿が陣中見舞いとして贈られています。このように串柿は、近世初期には、すでに下伊那の特産物でした。これを領主と百姓の両面からみてみましょう。
年貢としての串柿
串柿は領主にとって、将軍や他の大名への贈答品であると共に年貢賦課【ふか】の対象でした。虎岩【とらいわ】村(現飯田市下久堅)には、一六二五(寛永二)年の上納干柿の代米前借証文【だいまいまえがりしょうもん】が残されており、この時期、串柿は年貢の対象になっていたことがわかります。その後、串柿に対する年貢は、「柿相【かきあい】」(高須【たかす】藩領では「柿年貢」)として整備されていきました。
柿相を賦課する台帳となったのが「柿木改帳【かきのきあらためちょう】」(図7)です。柿木改帳には、柿木一本一本について場所・所有者・串柿の生産量が記録され、それにもとづき役所では、柿相を決めました。その割合は、柿一重【ひとかさ】につき米四合でした。串柿の生産量は、年によって大きな変動がありました。そのため「柿相」は、毎年検見【けみ】をして決定されるべきものでした。しかし十八世紀以降柿相は、定額の年貢の一つになっていきました。
柿串の単位
一串 | 五個(五個を一串にさす) |
一把 | 五串 |
一重 | 四把(二十串) |
一箇 | 十重 |
なお天竜川通船で運ばれる場合、一箇=十一重の場合もあった。
秋の農作業としての串柿作り
百姓の側からみると串柿は、秋の重要な農作業でした。串柿作りは、十月二十日頃から始まりました。昼は柿の実を落とすのと、前日むいた柿を串にさして干し、夜は柿むきを深夜まで行いました。これらの作業は、短期間に多くの労働力を必要とし、そのため人を雇ったり、近所の者を「ゆい」で頼んだりしました。(図8)
串柿の出荷は、稲こきの後、十一月下旬頃から行われました。また、この時期は年貢納入期にもあたりました。年貢の金納化が進んだ近世後期において、串柿を売った代金は、貴重な現金収入の一つでした。そのため百姓は、串柿を少しでも高く買ってくれる仲買人に売ろうとしたのです。
立石寺には、串柿に関わる絵馬がもう一つあります。一八一四(文化十一)年、江戸の柿問屋が奉納した絵馬です。佐野屋嘉蔵の世話で絵馬を奉納したのは、伊勢屋惣右衛門【そうえもん】(堀江町二丁目)、遠州屋又兵衛(堀江町二丁目)、丹後屋安右衛門(神田須田町)、伊場屋勘左衛門(堀江町二丁目)の四名です。江戸の柿問屋とはどのような存在であったのか、次の三点からみてみましょう。
①鍬不取【くわとらず】村(現下伊那郡泰阜【やすおか】村)の桑野屋の串柿仲間の帳簿をみると、これらの柿問屋は、串柿を集荷する仲買人をまとめて「仲間」を編成し、買い付けの前渡金を渡していた。
②また、一八三〇(文政十三)年に高須藩が江戸に産物会所【さんぶつかいしょ】を設けた時、柿問屋は、以前より串柿は自分たちが取り扱ってきたと主張し、江戸で独占的に売りさばくことが認められた。
③絵馬を奉納した柿問屋を中心として七、八軒の水菓子【みずがし】(果物)屋が立石柿を江戸城に納めていた。その中の一人丹後屋安右衛門は、一八六五(慶応元)年の「御用水菓子納人申合帳【おさめにんもうしあわせちょう】」では、世話人として名を連ねている。
これらのことから江戸の柿問屋は、串柿の流通に大きな影響力をもつとともに、江戸でも有力な水菓子屋であったことがわかります。柿問屋たちの居所は、当時青物【あおもの】市場のあった神田を中心にありました。天竜川を下り掛塚から船で運ばれた串柿は、万世橋【まんせいばし】付近(現在の神田駅付近)、元四日市町(現在の兜町【かぶとちょう】付近)などで水上げされました。
立石柿には、「将軍の歯堅め」という由緒がありますが、この背景には立石村の領主である近藤氏から将軍へ献上されたことばかりではなく、立石柿を扱う柿問屋が江戸の市場社会の有力者であったこととも関係がありそうです。